HONMEMO

読書備忘録です。

敗北を抱きしめて/ジョン・ダワー

ピュリッツァー賞受賞の日本ものといえば、ハーバート・ビッグス「昭和天皇」というのも本書と同じような時期に紹介された記憶があるが*1、そのころ、すでに戦後50年が過ぎ、総括の機運でもあったろうか。
いくつか抜粋メモ。

パンパンの姿は占領下の日本人の誰もが巻き込まれていた「アメリカ化」という巨大で複雑な現象のなかの、ひとつの目立つ例なのであった。パンパンは公然と、恥しらずに征服者に身を売ったが、他の日本人、とくにアメリカ人のお近づきになった、いわゆる「善良」な特権的エリートたちもまた、肉体そのものではないが、ある意味で身を売っていたのである。(第4章敗北の文化)

権威主義的に上から強く指導して現状をすっかり変えてしまうというやり方は、日本では目新しいものではない。アメリカの改革者たちによる日本占領が成功した理由の一つは、この点にある。マッカーサー元帥は典型的なアメリカ人であったが、日本の政治劇にいつも登場する役柄をたちまち割り振られることになった。たとえば、新しい君主、青い目の将軍、温情的な軍事独裁者、…といったイメージである。(第6章新植民地主義的革命)

多くの日本人がほとんど一夜のうちに、あたふたとアメリカ人を礼賛するようになり、「平和」と「民主主義」の使徒となったかのような有様をみると、そこには笑うべきこと嘆くべきことが山のようにあった。…たとえば原爆が投下された長崎においてさえ、住民は最初に到着したアメリカ人たちに贈り物を準備し、彼らを歓迎したのである。またそのすぐ後にも住民たちは、駐留するアメリカ占領軍人とともに「ミス原爆コンテスト」を開催したのである。…
 こうした類のエピソードを取り上げて、日本の民主主義革命がいかに根のないものであったかを証明するものだと考えることは簡単である。が、いつまでも語り継がれるような魅力的な「民主主義のフォークロア」がいくつも登場したことも、事実である。(第7章革命を抱きしめる)

身長、姿勢、年齢、場所などそこに写った事実上すべての点において、天皇はマッカーサーに劣っていた。したがって、不敬だという理解の仕方は間違いではなかったが、やや想像力に欠けるものでもあった。この写真は、大半の日本人が日本の敗北とアメリカの支配を心から実感した瞬間となったと言われてきた。しかし、検閲官や鼻息荒い愛国者たちが見過ごしていたのは、この写真は同時に、最高司令官は天皇を歓待しており、天皇のそばに立っている(stand by him「いつでも天皇の力になる」という意味を含む)ことを明確にしたものでもあったということである。(第9章くさびを打ち込む)

焼跡の菜園雨に打たれをり
の句は、「アメリカ合衆国に対する批判」として禁止された。(第14章新たなタブーを取り締まる)

「上からの革命」のひとつの遺産は、権力を受容するという社会的態度を生きのびさせたことだったといえるだろう。すなわち、政治的・社会的権力に対する集団的諦念の強化、ふつうの人にはことの成り行きを左右することなどできないのだという意識の強化である。征服者は、民主主義について立派な建前をならべながら、そのかげで合意形成を躍起になって工作した。そして、きわめて重要なたくさんの問題について、沈黙と大勢順応こそが望ましい政治的知恵だとはっきり示した。それがあまりにうまくいったために、アメリカ人が去り、時がすぎてから、そのアメリカ人を含む多くの外国人が、これをきわめて日本的な態度とみなすようになったのである。(第14章新たなタブーを取り締まる)

日本はどうすれば、他国に残虐な破壊をもたらす能力を独力で持つことなく、世界の国々や世界の人々からまじめに言い分を聞いてもらえる国になれるのか?この問いこそ、「憲法9条」が残し、「分離講和」が残し、「日米安保条約」が残したものである。それは軍事占領が終了し、日本が名目的な独立を獲得した時の従属的独立の遺産である。憲法9条の精神に忠誠を誓えば、国際的嘲笑を招く―。それは1991年の湾岸戦争で、イラク攻撃のために日本が実戦部隊を派遣せず資金だけを提供した時、あざけりを受けた心痛む経験によって明らかになった。他方、憲法9条を放棄すれば、日本は過去の敗北を取り消そうとしているという厳しい抗議を招くことは疑いの余地がない。日本の保守派以外に、南京虐殺を忘れている者などだれ一人としていないからかである。こうして、平和を求める日本の夢には、罠にかかって動けないような苦しみがつきまとってきた。(エピローグ)

敗北を抱きしめて 上 増補版―第二次大戦後の日本人

敗北を抱きしめて 上 増補版―第二次大戦後の日本人


手元のものは増補版ではない。500円×2@BO

*1:めずらしく原書で読み始めて4分の1ほど読んで放り出してあるのだっけ。