HONMEMO

読書備忘録です。

世界が土曜の夜の夢なら/斉藤環

 副題は、ヤンキーと精神分析。「ヤンキー的なもの」は実は思いのほか広く世間一般に浸透している。冒頭取り上げられる天皇即位20年の奉祝曲をEXILEが披露したというのは、まさに象徴的なのだけれど、TV、音楽などがヤンキー的なものにあふれているのはなんでなのかということは、日頃から感じていること。白洲次郎坂本龍馬人気なんていうのもそうだといわれれば、なるほどそうかもしれない。
 ヤンキー美学の中心にあるのが「気合」、ギャルの「アゲ」とほとんど同じで、感性に基づく投企的行動主義といえるもの。それは過度に情緒的であるゆえに反知性主義と結びついて、ことさらに理論や検討を軽視する。大切に扱われるのは、「原点、直球、愛、信頼」といった批判を許さない類の言葉。
 ヤンキー社会は、タテ社会だが、関係より原理が優先する男性的なものでなく、原理より関係自体が優先される女性的なもの。ヤンキーが家族を重視するのも、その表れ。
 ヤンキー文化には、「本質」「起源」というものがない。だからヤンキー文化のパロディーはありあえず、むしろヤンキー文化にパロディ的視点が織り込み済みになっている。ヤンキーの美意識は、「逸脱」と「様式」の繰り返しで形成されてきた(「目立つ」ために逸脱するが、それが踏まえている「様式」までは破壊しない。)。そこに「真善美」といった本質の追究はなく、あるのは、「目立つこと」「様式性」といった表面的な属性だけ。こうしてヤンキー文化のバッドセンス性は「目立つための様式性」としてきわまる。
 なお、↓もなるほど。

 ヤンキー漫画が一般にコミカルだったり大風呂敷だったりする最大の理由は、ヤンキー文化のダークサイドを否認・隠蔽するためである。(略)ほんの一握りの「成り上がり」の夢と希望をはらみつつ、ドロップアウトの悲惨さにはあえて触れない”優しさ”がそこにはある。