HONMEMO

読書備忘録です。

寝ながら学べる構造主義/内田樹

寝ながら読めないことはないが、それほど易しいものでもない。ただ構造主義というものの何とはなしのイメージを持つことはできたように思う。
備忘のため、若干抜書きしておく。

私たちはつねにある時代、ある地域、ある社会集団に属しており、その条件が私たちのものの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している。だから、私たちは自分が思っているほど、自由に、あるいは主体的にものを見ているわけではない。むしろ私たちは、ほとんどの場合、自分の属する社会集団が受け入れたものだけを選択的に「見せられ」「感じさせられ」「考えさせられている」。

あらゆる観念があらかじめ存在し、それに名前がつくのではなく、名前がつくことで、ある観念が私たちの思考の中に存在するようになる。
私がことばを語っているときにことばを語っているのは、厳密に言えば、「私」そのものではありません。それは、私が習得した言語表現であり、私が見につけた語彙であり、私が聞き慣れた言い回しであり、私が先ほど読んだ本の一部です。

「いま・ここ・私」を歴史の進化の最高到達点、必然的な帰着点とみなす考えをフーコーは「人間主義」と呼び、…この人間主義進歩史観に異議を唱えます。→(フーコーの問い)「これらの出来事はどのように語られずにきたか?」なぜある種の出来事は、選択的に抑圧され、黙秘され、隠蔽されるのか。
「かつて狂人は別世界から到来するものとして歓待された。いま、狂人はこの世界に属する貧民、窮民、浮浪者の中に参入されるがゆえに排除される。」つまり狂人の排除は、それが「なんだかよく分からないもの」であるからなされたのではなく、「なんであるかが分かった」からなされたのです。
制度に「疑いのまなざし」を向けているおのれの「疑い」そのものまでが、「制度的な知」として、現に疑われている当の制度の中に回収されていく不快。そのことに気づかずに「権力への反逆」をにぎやかに歌っている愚鈍な学者や知識人への侮蔑。この不快にドライブされた徹底的な自己言及がフーコーの批評性の真骨頂です。

  • (バルトに関して)

私たちは「エクリチュールの囚人」です。…「エクリチュールが自由であるのは、ただ選択の行為においてのみであり、ひとたび持続したときには、エクリチュールはもはや自由ではなくなっている」……あまりに広く受け入れられたせいで、特に「どの集団固有のエクリチュール」とも特定しがたくなった語法(「覇権を握った語法」)…すなわち「価値中立的な語法」のうちにこそ、その社会集団の全員が無意識のうちに共有しているイデオロギーがひそんでいる。→フェミニズム批評における言語論
テクストは様々な文化的出自をもつ多様なエクリチュールにより構成されている。そのエクリチュールたちは対話をかわし、模倣し合い、いがみあう。しかし、この多様性が収斂する場がある。その場とは、これまで信じられてきたように作者ではない。読者である。*1
バルトが探求したのは、「語法の刻印を押された秩序へのいかなる隷従からも解放された白いエクリチュール」(「エクリチュールの零度」)だった。→ヨーロッパ的な意味の帝国主義への嫌悪と俳句の賞賛。

レヴィ=ストロースは、…「あらゆる文明はおのれの思考の客観的指向を過大評価する傾向にある」ことを厳にいさめます。つまり、私たちは全員が、自分の見ている世界だけが「客観的にリアルな世界」であって、他人の見ている世界は「主観的に歪められた世界」であると思って、他人を見下しているのです。…そして、レヴィ=ストロースは、まさにその点についてサルトルの「歴史」概念に異議を申し立てることになります。
人間が他者と共存してゆくためには、時代と場所を問わず、あらゆる集団に妥当するルールがあります。それは「人間社会は同じ状態にありつづけることができない」と「私たちが欲するものは、まず他者に与えなければならない」という二つのルールです。

  • (ラカンに関して)

「何が言いたいのか」を言うことはできませんけれど、「どうしても言葉にならないもの」がそこに「ある」ということだけは言うことができます。ラカンの「自我」は、その「言葉にならないけれど、それがことばを呼び寄せる」ある種の磁場のようなものだ…。
ラカンの考え方によれば、人間はその人生で二度大きな「詐術」を経験することによって「正常な大人」になります。一度目は鏡像段階において「私ではないもの」を「私」だと思い込むことによって「私」を基礎づけること。二度目はエディプスにおいて、おのれの無力と無能を「父」による威嚇的介入の結果として「説明」することです。

寝ながら学べる構造主義 (文春新書)

寝ながら学べる構造主義 (文春新書)


725円@都心の大規模書店

*1:→内田は、「この一節はほとんどそのままインターネット・テクストに当てはめることができます。古典的な意味でのコピーライトは、インターネット・テクストについてはほとんど無意味になりつつあります。…コピーライトの死守を主張している人たちがいますが、その人たちもむしろ自分の作品が繰り返しコピーされ、享受されることを「誇り」に思うべきであり、それ以上の金銭的なリターンを望むべきではない、という新しい発想に私たちは次第になじみつつあります。…コピーライトを行使して得られる金銭的リターンよりも、自分のアイデアや創意工夫が全世界の人々に共有され享受されているという事実のうちに深い満足を見出すようになる、という作品のあり方のほうに私自身は惹かれるものを感じます。それがテクストの生成の運動のうちに、名声でも利益でも権力でもなく、「快楽」を求めたバルトの姿勢を受け継ぐ考え方のように思われるからです。」と言う。 著作権を巡る状況が大きく変わりつつあることは間違いない。