野坂昭如の文章を初めて読んだ。「エロ事師たち」などの文体について、当時、「西鶴の影響がある、日本の古い語り物の血筋を引く、助詞をとっ払い行替えのない語り口は、古いようで斬新…」などとも評されたようだが、独特の文体でおそれいった。
文壇ゴシップの面白さというのもあるのだが、野坂の創作についての内面が覗けるところが面白い。
締切ギリギリになって、自分でも訳判らぬまま、ただ桝目を埋めていく小説のようなものではなく、きちんと構成を考え、筋立てに工夫を凝らした作品を書きたいのだ。あるいはこの過程にこそ、創作の楽しみがあるのかもしれない。何も考えられぬ、冒頭部分は、まったくの思いつき、出鱈目、いい加減きわまる文字を連ねるうちに、文字が連鎖反応を起こしてつながって行く、これが途切れたらお終い、だから行替えできず、句点がうてない。
「火垂るの墓」は、いかにも自分の体験に基づいているかの如く文字を連ね、大嘘である。自己弁護とまで考えないが、卑しい心根に基づくフィクション、どう嘘をついてもかまわない特権はあるのかもしれないが、この嘘はいかがわしい、小説家にさえ、これは許されないような気がする。
そしてこの作品にまつわるうしろめたさが、小説を書かなくなったことの一因となっているようだ。
四畳半襖の下張事件が登場しないのが肩透かし感がある。しかしまあよく飲むなあ。
- 作者: 野坂昭如
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2005/04
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