本書の主題とはズレるのだが、裁判による救済にはそもそも限界があるのではないかということを考える。最後の手段ということではあったのだろうけれど。
本書の主題とはズレるのだが、裁判による救済にはそもそも限界があるのではないかということを考える。最後の手段ということではあったのだろうけれど。
驚くような発見なし。
既存政党の政策が妥協の模索によって中庸によることによって選択肢を提供できなくなり、その中で、ポピュリズムは、置き去りにされたと感じる人々の声を吸い上げる。我が国で言えば、維新なのだが。
ポピュリズムとは何か - 民主主義の敵か、改革の希望か (中公新書)
満州建国大学は、五族協和を唱える満州国のエリートを養成するために設立され、日本、中国、朝鮮、モンゴル、ロシア各民族から選抜された優秀な人材が、寮生活をしながら、自由闊達な議論を繰り広げたという。その卒業生たちに対するインタビューなどを通じて、建国大学の実像や卒業生のその後の人生を追っていく。しかし、資料が乏しい上に、多くの卒業生が鬼籍に入り、また高齢化するなどしているなどの限界もあって、もっと深掘りをしてほしいという欲求不満の残るものになっている。やむを得ないといえば、そうなのだろうが。
満州国研究の山室教授が「意図と結果。それを丁寧にたどっていかないと、満州をめぐる一連の問題は決して捉えることができない」というのは、全くそのとおりなのだろうと思う。
読む本がなくなって止むを得ず読んだみたいなものなので特に文句もないが、つまらない。
明るく、ポジティブな、人類社会の現状分析と未来予測。経済成長なき定常社会は、生の合理化=現在の空疎化という圧力から解放され、無数の至福が一斉に開花する高原であると。
「軸の時代」が定常期たる原始時代から爆発期たる近代社会への変節期であるとすれば、現代は定常期たる未来社会への変節期たる第2の軸の時代である(ロジスティック曲線)。
近代社会は、無限の資源の消費による高度成長を続けてきたが、グローバル化によって最終的な有限性にぶち当たることになった。これが現代であり、これからの定常社会の「高原の見晴らしを切り開く」必要がある。
近代の特質は、合理化の貫徹にあり、未来の目的のために現在の生をそれ自体として楽しむことを禁圧する。近代の最終ステージである現代の特質は、その未来をも失ったことにある。このような状況がアキハバラ無差別殺傷事件やリストカッターを生む。
また、原発や遺伝子組換えなどの現代のいわゆるリスク社会化の問題も経済成長の強迫観念、環境容量を無理やり拡大させようとする強迫観念からくるものである。
一方、青年の精神の生活満足感の増大と保守化、シンプル化、素朴化、ナチュラル化という価値感の広がりがみられ、またピダハンと通底するような幸福を感じている青年が増加していることは、環境容量のこれ以上の拡大を必要としない方向(ロジスティック曲線を歓ばしい曲線とする方向)を展望することができる。
経済成長のない社会は、停滞した、退屈な社会ではなく、経済競争の強迫から解放され、多彩で豊穣な幸福を享受する。
その転回の基軸となるのは、幸福感受性を取り戻し、または再生することである。
世界を変えていく方法としては、20世紀の革命が、否定主義、全体主義、手段主義であったことの反省に立ち、ベルリンの壁崩壊のように、卵を割るのではなく内側から破るものでなくてはならず、また、肯定的、多様であること、consummatory(現在を楽しむということ)であることが必要である。そのイメージは、新しい世界の胚芽となるすてきな集団、ネットワークをいたるところに発芽させ、連合することである。
現代社会はどこに向かうか――高原の見晴らしを切り開くこと (岩波新書)