稲泉連は、「ぼくもいくさに征くのだけれど」、「アナザー1964」、「廃炉」と読んできた。
著者は就学前の1年ほど、母とサーカスに暮らした。それは夢と現のあわいの独特の時間として記憶される。本書は、その時に出会った人たちを中心とするサーカスの人々の当時のまたその後の暮らしを取材したノンフィクション。
サーカスには子供を売る、人さらいというイメージが付きまとい、そのため、サーカスの人の口は重いといい、著者のような経歴があるからこそ口を開いてくれるという面もあると(実際、食えない子供たちをたくさん預かった事実はあり、世間はそれを人さらいと言ったが、サーカス側もそれを否定せず、その哀愁のイメージを利用したいう面もありそうだという。)。
サーカスでの生活は、常に誰かがそばにいて、困っていれば声を掛け、ダメなものはダメと叱る、擬似家族的関係のようでもあり、あるいは、もっと葛藤のない「いてもいいよ」という楽な関係であったという。
その中で育った子供たちは確かに自由に見えたが、一方それはサーカス内での自由で、外の世界に広がる大きな自由の可能性を知らなかったとも。サーカスを出てから苦労をする人も多い。
著者は、当時を思い出すと、懐かしいような、全てが夢であったような、そんな気持ちになるという。それはサーカスに関わって生きた人々皆の思いのようだ。