HONMEMO

読書備忘録です。

保守の真髄/西部邁

- 必要なのは、理想を内包する現実であり、現実に裏付けられた理想なのである。つまりここでも、理想と現実の間の平衡が要求されるのだ。その平衡に抽象名詞を与えてみれば、自由と秩序の平衡はバイタリティ(活力)、平等と格差の平衡はフェアネス(公正)、博愛と競合の平衡はモデレーション(節度)、そして合理と情操の平衡はボンサンス(良識)ということになろう。国家のノーム(規範)のスローガンは活力、公正、節度、良識の四幅対だということになる。

- ハイブリディティゆえのコンプリヘンシヴネスによって特徴づけられる日本文化は、それらを統合するプリンシパルへ向けての思索と討論が不足するなら分解するほかない、という危険につねにさらされてきた。

- 日本的なるものを捨てる方向に少しずつのめり込んでいったのが大日本帝国、そういうものが滅亡するのもまた宿命的な成り行きであったと言わざるを得ない。つまり文明の紊乱において戦前と戦後は(屈折はしているものの)連続しているということである。

- よき民衆政治がありとせば、それは「民衆制が危険きわまりないものであると疑う者たちによる民衆制」しかない。

- 選挙民の政策についての判断力はせいぜい立候補者の大まかなプラットフォーム(公約)についての審判にとどまる。マニフェスト選挙は机上の空論である以上に、直接民主制によって間接民主制の機関たる議会を有名無実と化し、さらには代表者を選ぶ選挙をすら無意味にする。

   政策の具体策についてまで選挙民が介入するのは越権行為も甚だしい。議会の決定が気に入らないなら、次の選挙で別の代議士を選ぶしかない。それが筋道というものだという意味で代議制は時間と費用のかかる制度なのである。

- 役人は選挙の洗礼を受けない半政治家であるといってもよい。というより、選挙によって言動を過度に左右されにくい役人があればこそ、国策における一貫性が可能となる。その意味において政治は選挙というより落ち着きのない制度から半ば自由になっておれるのである。

- 構造という言葉は歴史的に形成されてきたった物事の在り方のことを指す。つまり、時間と費用をかけて少しずつしか変えられないし、また変えてしまっては単なる破壊に終わってしまう。

   平成改革にあっては、急進的大変革がよしとされた。その革命主義が政官財さらにはマスコミ界の意識に広く浸透したことが問題なのである。その初めから失敗を予定されているイデオロギーのせいで、平成期の日本国家はおのれの屋台骨を自壊させてしまった。

- 国柄は作るものでなく、成るもの。→改憲でなく、廃憲。成文憲法を作らなければならないというのは、不安神経症者に特有のもの