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読書備忘録です。

ぼくらの戦争なんだぜ/高橋源一郎

戦争を伝えるとはどういうことなのか、あるいは戦争との向き合い方についての文芸評論。多くの戦争語りがなぜつまらないのか、伝わらないのかについて、一つの納得感のある説明だと思う。

戦争が語られる時、「大きなことば」で語られる「大きな記憶としての戦争」か、その断片としての「小さな記憶としての戦争」がほとんど。小さな記憶は、個人が「小さなことば」で語る個人的な記憶のことだが、大きな記憶に慣れていくにつれて、人々の小さな記憶は、大きな記憶に似てきてしまう。

高村光太郎らの参加した戦意高揚のための詩集「大東亜」の詩を書いた詩人は、後に大きな川、ないし空気に流されたと弁解する。これを批判するのは簡単だが、実は同じことは起こりうるし、すでに起こっている。

戦争の本質に迫ったとされる「野火」は、「遠い」ところで書かれたものと感じる。何かが分かるためには「近い」ものである必要があるが、野火は「彼らの戦争」について書かれた、世界の「外」へ抜け出ていった者の物語であり、その声が遠くから聞こえるように思える。

一方、向田邦子の「ごはん」は戦時下という非日常の中で日常を描いている故に傑作で面白い。

林芙美子の従軍記「戦線」は、自分の根である大衆の立場から書かれたもので、これを批判することは大衆を批判することと同じ。一方、戦後、慰安婦を書くことで、戦争の見方が全く異なるものとなる。作家とは、社会にとっての「非正規」な愛人「慰安婦」なのかもしれない。

戦時下、書く自由が奪われた中で、太宰のみが優れた作品を書いた。一見戦争協力作品のように見えて、それに対抗する作品を。

「十二月八日」の主人の冗談、「大いなる文学のために死んでください」という詩文が強調される「散華」、魯迅の故国中国批判を巧妙に換骨奪胎して日本批判をしている「惜別」など、なかなか指摘されないと分からない。