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読書備忘録です。

どうせ社会は変えられないなんてだれが言った?/井手英策

所得制限なく教育、医療、介護、子育て、障害者福祉などのベーシックサービスを無償化し、その財源は消費税(16%)とする主張。消費税は定率なので富裕層ほど負担額は多く、受け取れるサービスは一定なので低所得層ほどメリットが大きい。全ての人に安心できるサービスが提供されることによって社会の分断も回避できる仕組み。

自民党に対抗する政策として、このベーシックサービスを堂々と掲げる政党がでてこないものかと思う。左派政党にとっての代替ビジョンとして相応しいもののように思えるが、消費増税を掲げ、その理解を得ようとする人物、政党は、今や左派からは出ないだろう。痛みの分かち合いといったようなビジョンもなく、ただ消費税の負担が増えるのはイヤ、後の世代に負担させるか自分以外に負担させるべき、一方サービスは拡大するべしなどというビジョンなき欺瞞的態度が根底のところで見透かされている。左派の欲する安心できる社会は、負担の増加とセットでないと不可能で、未だに埋蔵金の思想から脱却できていないか、批判だけしていればいいと考えているかだ。自民党も似たり寄ったりではあるが、消費税の10%への拡大の時に自民党がこの考え方を一部先取りした(パクった)ように、その実現があるとすれば、その道筋は自民党によって敷かれると考える方が現実的に思える。

著者はその生い立ちなどから、ベーシックサービスをもとにする社会づくりを自らの体験に基づく政策として主張し、民主党のブレーンとして活動した時期がある。本書は、象牙の塔からの思想ではない熱い想いをぶつけた著作になっている。「幸福の増税論」と比べ、やや情緒的な文体が気にはなるが。

以下メモ

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生活の安心が保障されない国では、競争を強いるしかない。なぜなら、自己責任を果たせる経済力を持たないと自力で生きられないから。人間に競争を押し付ける社会は自由を否定する社会である。競争を選べることこそ、自由な社会の前提であるはず。競争を押し付ける社会は、自己責任で生きていけない人を見下す空気を生む。

救済(生活保護)は良いことだが、救われる人間の心には屈辱が刻み込まれる。したがって、どうやって弱者を救済するかではなく、弱者を生まない社会を作ることが重要。

皆が幸せになるとは、一部の困っている人を助けることではなく、金持ちを含めた一人一人が幸せになること。ほとんどの人が自己責任で生きていける社会ではなくなっているのだから。

所得に無関係にすべての人々にベーシックサービスを保証すると、「救済してもらう領域」(生活保護など)がその分小さくなる-生活保護の中の医療扶助、介護扶助、教育扶助は不要になる。すなわち、人の心に屈辱を刻み込む領域が減る。誰かを救済する社会ではなく、皆が堂々とサービスを使える社会へ。

ベーシックインカムは、全ての人にお金を配るので、費用が膨大になる。ベーシックサービスは、サービスを使う人は一部に限られるため、コストを下げられる。高齢者には介護、子育て世代には大学といったようなそれぞれが必要とするサービスを全体にバランスよく配ることにより低コストで全体を受益者にすることができる。

ベーシックサービスは、所得制限をせず、金持ちにもサービスを提供する。全員が負担者となり、全員が受益者となることでも所得格差は縮小する(定率の税を財源として同一のサービスを提供すれば格差が縮小するのは自明)。低所得層も含めて負担をすることで、富裕層、大企業を説得する「痛みの分かち合い」が財政改革の基本方向。金持ち憎しだけで税は取れず、これに基づくサービスがなければ辛い人たちの痛みは増す。

救済の領域では、不正がないか疑いの眼差しが支配し、他者を信頼できない社会を作ってしまう。ベーシックサービスはそのような領域を減らすとともに、中間層も利益になることから、中間層が低所得層と連帯する可能性が高まる。

救済の領域は、最低限の保障ではなく、「品位ある命の保障(decent minimum)」である必要がある。

ベーシックサービスの核心思想は、税を通じて皆が痛みを分かち合いながら、全ての人が社会生活に参加でき、健康に自律して生きていくための条件を整えようとする「社会の共同事業」という考え方。これにかかわることで、「共にある」という感覚を育むことができる。

ベーシックインカムは、全ての人の所得保障を行う、すなわち救済される領域が消えることになるが、月額12万円程度の給付がないと、そのメリットがなくなる(弱まる)。

月12万円のベーシックインカムに要する経費は180兆円、消費税率をもう64%引き上げる必要がある。既存の社会保障を医療も含めてベーシックインカムに置き換えるとしても、貧困線を上回る給付を行うことはできないし、生活保護の給付が無くなり、医療費が10割負担になることを考えると現実的ではない。また、ベーシックインカムは、政府に指図されずに自由にお金を使える究極の自己責任社会を生む。リバタリアンがこの考えを支持するのはこのため。

ベーシックサービスはお金と違って交換が効かないが故に、どのサービスが緊急性が高いか、どのサービスを組み合わせると合意が得やすいかなどを議論し、選択するという民主主義的手続が重要になる。

一方、医療、介護、教育、障害者福祉というベーシックサービスを無償化するためには、消費税を16%にする必要がある。そもそも消費増税の負の効果がどこまでかも必ずしもはっきりせず、また、「貯蓄ゼロでも不安ゼロ」の社会となれば、過剰な貯蓄が消費に回る、と言った効果も考えられ、消費増税の負の経済効果も減殺される。

ヨーロッパでは、左派が付加価値税を財源としてサービスの充実を訴えてきたが、日本では消費税導入を巡っての社会党の成功体験(山が動いた)によって、消費税は忌み嫌われるものとなった。

ベーシックサービスの財源は、消費税に限らずいろいろなもので良いが、税収の大きさから外すことができない。消費税1%は2.8兆円、富裕層の所得税率1%は1400億、法人税率1%は5,000億にしかならない。消費税率16%にするというのは、所得税では120%、法人税では34%というべらぼうなものになる。消費税を抜きにすると実現できる政策が小さくなる。

したがって、命と暮らしの保障を充実させつつ、貧しい人の負担が相対的に大きくなる消費税と富裕層への応分の負担を組み合わせることで、税と税の間の公正さを実現していくべき。

消費税は、外国人も含めて日本に暮らす全ての人が払うもの。全ての人がサービスを利用する権利を手に入れるための責任を果たすことになる。誰もが納税の義務を果たし、将来の不安のない社会を作る担い手となれる社会は、自分の属するコミュニティを支えているという自負をもちつつ、自分の価値を実感できる社会になる。

MMTは、結局借金の先送りとなるリスクを負うもので、そのようなリスクを負いつつ極端な借金依存の財政を作るというギャンブルのような政治は支持できない。

政治が信じられないから増税反対という主張はやめるべき。政府を監視し、国民の期待する行動をとるようにするための方法を粘り強く考えていくのが筋。

ベーシックサービスのその先の議論も展開されるが、メモはここまで