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読書備忘録です。

暇と退屈の倫理学/國分功一郎

人々は豊かになって暇を得たが、文化産業が人々に産業に都合のいい楽しみを提供し、労働者の暇を搾取している。これは人が退屈を嫌うから。なぜ人は暇の中で退屈してしまうのか。暇の中でいかに生きるべきか、退屈とどう向き合うべきか(暇と退屈の倫理学)。

消費とは、物ではなく、観念や意味を消費するので、消費という行動は(モデルチェンジを見れば明らかなように)永遠に終わらない。消費社会は、物を浪費して満足させるのではなく、記号に仕立てて消費者が消費し続けるように仕向ける。退屈が嫌だからといって、消費をいくら続けても、限界がないので満足はもたらされない。

退屈には、列車を待つ間の退屈(第一形式)、参加したパーティーの退屈(第二形式)、なんとなく退屈(第三形式)の3つがある。第一形式は、時間を失いたくないという強迫観念に取り憑かれた狂気である。人間が正気を生きるとは、気晴らしと退屈が絡み合った第二形式を生きることだ。これが人間的生の本質である。第三形式のなんとなく退屈だという声を聞き続けることは恐ろしい。これから逃げ出そうとして第一、第二形式の退屈がもたらされる。

第三形式の退屈から逃れるためには決断が必要という考え方があるが、これは決断という狂気の奴隷となることに他ならず、決断した後の状態は第一形式の退屈、日常の仕事の奴隷になっている。

人間であるとは概ね第二形式の退屈を生きることであり、時に第三形式=第一形式に逃げてまた戻ってくることだ。人間は退屈と向き合って生きていく手段を開発してきたし、その成果をもっと享受することができる。また第二形式の退屈を生きる時には、退屈を運命付けられた人間的な生から逃れる可能性がある(動物的になること)。すなわち、自己と向き合い、考えることの契機となる何かを受け取り、思考することだ。

退屈を逃れるには、第二形式の中の気晴らしを楽しむこと、訓練して日常的な楽しみをより深く享受することだ。記号として終わりなく消費するのではなく、物を享受する余裕をもつ中で、楽しむことは思考することにつながる。