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読書備忘録です。

異端の時代/森本あんり

正統、異端とは何かを突き詰めつつ、現代のポピュリズム反知性主義のありようの危うさを示す。

キリスト教などでは宗教の3要素として、正典、教義、職制があるが、それらによって正統が生まれるのではなく、正統はそれに先立って成立している。

正典は、正統派による異端排除のための道具のようにみなされるが、実はまず異端が正典を作り、それに慌てた正統が自らも正典を作って対抗したもの。つまり、正統も異端も正典の成立に先立って存在する。教義についても、教義として定められたから正統になったのではなく、人びとが長く実際に信じ祈ってきた内容そのものが正統。まず信仰の実践があり、それが教義として追認される。また、正統は、「どこでも、いつでも、誰にでも」信じられてきたことでなければならず、一部の聖職者が正統を担うものではなく、その権力闘争が正統を生むものでもない(禁欲主義の担い手は一部の哲学的教派であり、大多数の人々には実践困難な生のあり方であった。そのような少数派の厳格思想に正統は宿らない。)。

異端の特徴の一つは「原点回帰」であり、原初的な啓示と自己の現在を無媒介に接続することで、ラディカルな理想主義と英雄的なリゴリズムを生む。だから異端は必然的に少数となる。これに対し、正統は世俗の不完全さを前提として出発するため、人間と社会の欠陥に寛容である。

正統は、その全体像を明示的に名指しして定義することはできず、正統でないものを特定して否定し、その最大外周を指し示すことでその内容を浮かび上がらせることができるだけである。一方、異端は特定部分を焦点化することで異端となる。

既存の制度を、権威を否定し、それに代わって自己の内心を真理の最終審級の座とする考え方(反対する時が一番自分らしい)が一般化すれば、従来の公共的な権威の座としての正統は溶融し消失する。異端は、本来正統を批判するだけでなく、それに代わる新たな伝統を形成する志を持つことで異端となるが、正統の消失でこれが困難となる。今日「異端」を標榜する人に正統になり代わるという高い志、気概がみられない(なんちゃって異端)。

現代は、「宗教とは教義や組織ではなく、教会や聖職者などの外的な媒介は不要で、個々人が直接心で実感するもの」という個人主義が宗教の本義となっており、これに異端的セクトの過激さが転移している。彼らは、権威とされるものに批判を浴びせる時(御上たたき)に確かなアイデンティティを感じ、またその時、自分の怒りは社会的に是認される公憤であると考えている。しかし、彼らは他者攻撃において仲間意識を共有しても、その後に来たるべき新たな秩序形成を共に担うということには腰が引ける。伝統の意義を否定し、既存の制度を葬り、正統な権威を引きずり下ろした後の空虚さを埋めようとして人は過度に宗教的になる。

ポピュリストは、社会に多元的価値があることを認めず、狭い政策的アジェンダに対する賛否で有権者を二分し、善悪を分つ。投票により過半数を獲得すると民主主義の正統性を纏った善の体現者として反対者を敵とみなす。このように全体を僭称することが異端の特徴である。ポピュリズムの持つ熱情は、宗教的熱情と同根であり、反知性主義と同じく、宗教なき時代の代替宗教の一態様である。ポピュリズムの宗教的善悪二元論は、市井の人々の不満や怒りをぶつけさせ、自分にも意義ある主体的な世界参加の道が開かれているといったような正統性の意識を抱かせ、それを堪能させる機会を与える。統治者は全国民の排他的な代弁者ではない。このことを忘れて部分が全体を僭称する時、正統性は内側から蝕まれる。

古今東西の真正の異端は、皆志高く、知的に優秀で、道徳的に潔癖で、人格的に端正で、人間的に魅力がある。現代には非正統はあるがそのような異端はない。

一人よがりの正義を振り回したりせず、粘り強く理想を実現するための闘いを続けるような異端だけがやがて正統となる。正統となったら、次は新たな異端の挑戦を受ける。そのようにして舞台が回り続けることが健全な社会である。

現代に正統の復権が可能だとすれば、それは次代の正統を担おうとする真正の異端の登場から始まるしかない。